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2008年04月23日

戦艦大和撃沈

太平洋戦争末期の1945年4月7日、日本海軍が発動した天一号作戦の一環として、戦艦大和を含む9隻の艦船から成る水上特攻部隊が沖縄に出撃しました。
その途中の坊ノ岬沖にて、太平洋戦争に於いて日本海軍の象徴ともいえる戦艦大和がアメリカ軍の戦闘機や爆撃機の攻撃により撃沈されました。


この戦いで日本海軍の艦船9隻のうち6隻が撃沈されてしまいました。
この戦闘での日本軍の戦死者が約3700名に対してアメリカ軍の戦死者は12名とここでも制空権を握っていたアメリカ軍に有利な戦闘が繰り広げられました。

戦闘機の護衛のない艦船だけでの作戦遂行がいかに無謀であったかが証明されてしまいました。


戦艦大和は太平洋戦争開戦とほぼ同時期の1941年12月16日に就役しています。
1937年11月4日の起工から丸4年の月日を費やして完成しました。

つまり完成からわずか3年4ヵ月という短い一生だったわけです。
その短い一生の中で戦地に出撃したのは
・ミッドウェー海戦 
・マリアナ沖海戦 
・レイテ沖海戦 
・沖縄特攻の4回だけです。

そのうち戦闘に参加したのはレイテ沖と沖縄特攻の2回のみです。
太平洋戦争開戦当初想定していた敵艦に対しての攻撃はわずか1回のみとなりました。

太平洋戦争開戦時には既に大和の本領が発揮できる戦場や戦法というのは、遠い過去のものとなっていました。


戦艦大和の最期は魚雷を左舷に集中攻撃を受け、左へ15度ばかり傾斜しましたが、3000トンにも及ぶ注水で一時的に復元します。
このとき搭乗員は「やはり大和は不沈艦なんだ!」と微かな望みを持ったのではないでしょうか。

しかしその後アメリカ軍の波状攻撃によりついに左に転覆。その直後、弾薬庫に引火誘爆して巨大なきのこ雲を立ち昇らせながら海中に沈んでいきました。


結局は太平洋戦争中、期待された戦果を挙げることなく悲運の最期を遂げることになりました。

しかし太平洋戦争終結後日本人の記憶に深く刻まれ愛される戦艦になったのは、日本人の哀れみの心がそうさせているのかもしれませんね。


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posted by tears0815 at 21:26| Comment(50) | TrackBack(2) | その他の戦闘および出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月16日

零戦

一般的に零戦(ゼロセン)と呼ばれている日本海軍の戦闘機。
正式名称は零式艦上戦闘機といいます。
日本は無論、世界的にみても最も有名な戦闘機のひとつです。


名称は海軍に制式採用された1940年が、初代天皇の神武天皇が即位した年を元年とする、日本の暦の皇紀によれば2600年にあたり、下2桁を名前に冠するという海軍の慣習に倣って 00 = “零式”となった。
1年早ければ九九式、1年遅ければ一式艦上戦闘機となっていました。

ちなみにこの慣習は2年後の1942年で廃止されており、それ以後の戦闘機には「雷電」や「紫電」となり年次名称は付いていません。

戦闘機としての性能の高さもさることながら、この零式という名称もこの戦闘機にマッチした一種威厳に満ちたもので、この戦闘機が伝説の名機となり得たひとつの要因ではないかと私は感じます。


しかしこの戦闘機にも欠点はありました。海軍の求める性能があまりにも厳しく、その要求をクリアするために度を超えた軽量化が図られているため防御性能はほとんど“0”で、ひとたび被弾すると生還を帰すのは絶望的でした。

つまりこの方針を貫くには、常に敵機より“素早しっこい”性能の維持が必要だったのです。すなわち零戦を超える次世代戦闘機の開発が急務だったのです。

しかし現実には終戦まで零戦が海軍の戦闘機の主力にならざるを得ませんでした。零戦の生産台数が1万機を超えて造られたヒット作であるといえるけれど、裏を返せば次世代機の投入が遅れて時代遅れとなった零戦を造り続けなければいけなかったということです。

この開発の遅れというのは致命傷になりました。日本という国は資源が乏しいのだから、有る物資(戦闘機)をいかに長く大事に活用するかが重要で、そのためには戦闘能力の高い戦闘機の研究・開発を全力で推し進め、敵機に撃ち落とされない性能を持ち続ける戦闘機を造り続けることが日本が生き残る唯一の道だったと思います。

そして一番痛かったのが熟練パイロットの損失です。敵機を上回る性能を有した次世代機を随時投入し続けられていたら、貴重な戦力である熟練パイロットの損失を最小限で抑えることができたはずです。


時代の変化に追いつくことができなかったという意味で零戦の光と影は、この太平洋戦争の縮図のように感じられます。


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posted by tears0815 at 15:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 武器・兵器 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月09日

神風特攻隊

太平洋戦争末期の1944年10月末に開戦したレイテ沖海戦にて神風特別攻撃隊の作戦任務が始まる。
このあと太平洋戦争終戦まで継続して行われた。


零式艦上戦闘機(零戦)に搭載できる最大量250Kgの爆弾を搭載して、アメリカ艦船に向かって搭乗員諸共体当たりを敢行するという作戦とは言い難い作戦である。


日本軍はミッドウェー海戦以後敗戦続きで、兵士の数も兵器も不足しているのに、この特攻という作戦はその両方をさらに失うことが確実な行動である。


人権的にも作戦的にも不可解で賛同することのできない愚行であるが、当時の状況を冷静に考えてみれば、この特攻という自殺行為も説得力を持ってくるのです。

太平洋戦争開戦当初は他国に対して圧倒的ともいえる戦闘能力を誇示していた零戦も、太平洋戦争末期になるとその輝きは薄れ日本海軍が誇る最強クラスの戦闘機をもってしてももはやアメリカの戦闘機には太刀打ちできない状況になっていたのです。

これは日本軍の進化に比べてアメリカ軍の進化が著しく、物量は言うに及ばず兵器の質までも大きな差をつけられていたのです。そのような状況下では通常の戦闘においても生還できる可能性は極端に低く、「どうせ生きて還れないなら特攻隊の任を受け名誉の戦死をする」という選択も大いに現実味を帯びてくるのです。


そしてここでも忘れてはならないことは神風特攻隊の多くは前途有望な若者だったことです。純粋無垢な若者を軍人としての教育と称した洗脳で無謀な戦いに従事させて戦争を継続し続けた軍令部の所業には憤りを覚えます。


最後に戦果ですが、日本軍は当初の予定ではアメリカ航空母艦を攻撃目標に定めたがアメリカ側の反撃が強く、沈没に至らしめたは航空母艦は一隻もなかった。
攻撃目標を駆逐艦など小型艦船に変更しており、作戦当初の目的であったアメリカ航空部隊の戦力を削ぐことは叶わなかった。
posted by tears0815 at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | その他の戦闘および出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月03日

学徒出陣

1943年10月21日に東京の明治神宮外苑競技場で、出陣学徒壮行会が開催されました。

翌年の第二回以降太平洋戦争終戦まで学徒出陣は継続されましたが、壮行会が開催されたのはこの時が最初で最後でした。
理由は定かではありませんが、戦況が悪化するなかで実施する余裕がなかったのかもしれません。

太平洋戦争前に日本が締結した三国同盟のうちの一国であるイタリアがこの年の9月に連合国に対して降伏しました。
日本もこのタイミングで同じように降伏していれば、前途洋々たる学生が戦地に赴き若き尊い命を散らすという悲劇は避けれたと思うと残念でなりません。 


学徒出陣の必要性は言うに及ばず兵士の不足を補うものでした。
1937年からの日中戦争を継続したままこの太平洋戦争に突入してしまいました。
したがって日本のキャパシティを遥かに超える規模の戦闘を強いられており、火力や食糧はもとより兵士の数も危機的状況にありました。

そのためそれまでの徴兵制度の下での兵士確保では追いつかず、それまで26歳まで徴兵を猶予されていた今でいう大学院などの学生たちのもとにも徴兵検査が強制され兵士となる義務が発生したのです。

この件による悲劇は太平洋戦争中のみに止まらず、太平洋戦争後の日本国復興の時期に活躍するはずだった優秀な人材を消失したという事実を思えば、当時の日本の指導者の責任は決して小さくはないと思います。

この太平洋戦争の激戦のひとつである沖縄戦では、さらに下の年齢の子供たちも兵士として戦争に動員しています。
しかも自分の身を守る十分な兵器を与えられないという状況に身を置かざるを得なかったのです。それでも戦わなければならなかったのです。

そんな子供たちに、せめてひと筋のささやかな望みの光を与えてあげることができたなら… それすら許されない絶望的な戦争をいまだ続ける日本の指導者の愚行を私たちは決して忘れてはならないのです。

posted by tears0815 at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | その他の戦闘および出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月26日

山本五十六連合艦隊司令長官 戦死

1943年4月18日、連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将が敵機の奇襲攻撃を受け、墜落絶命した。いわゆる海軍甲事件とよばれている出来事。


この事件の背景には、真珠湾攻撃を立案・指揮した山本海軍大将への、アメリカ軍の相当な恨みがあったと思われる。

あらゆる手段を駆使してこの首謀者を探し出し、仇討を仕掛ける。
このことがアメリカ軍の士気の高揚につながる一因であったことは間違いないのではないでしょうか。

このこともあり情報収集には貪欲な姿勢をみせていて、暗号解析能力という強大な武器を手に入れたと考えます。


それに引き換え日本軍の情報に対する不手際がここでも露呈してます。

細かな日程まで打電してしまうということは、暗号はつい先日変更されたばかりだから解析されることはないという慢心があったのではないかと考えてしまいます。 



日本側の危機管理について問題視する声があると思いますが、当時考えられていた状況として

@一応まだ制空権は日本側にある。
A護衛に零式艦上戦闘機を9機同行させる。
B暗号無線を傍受解析はされておらず、アメリカ側には気付かれていないはず。

このように判断したと思われ、取り立てて大騒ぎするほど危険極まりない行動であるという認識はなかったのではないでしょうか。

それよりも最前線で苦しい戦いを強いられている兵士たちを見舞い、激励したいという山本海軍大将の強い意向に押し切られてしまったのでしょう。

ある意味、時間に厳格で予定通りに行動する山本海軍大将の性格が災いして起こった事件との見方もできます。

時間にルーズな人で出発が仮に1時間遅れていれば、敵機の燃料の関係でこの奇襲攻撃は回避できたかもしれません。

しかし戦況は悪化の一途を辿っていて、近い将来に同じような事件が発生していた可能性は大だと考えます。

ひょっとして当の山本海軍大将自身が生きて日本に帰ることをよしとせず、最期は戦場で死ぬという決意が固く、あえて危険に身を晒すという行動を回避しなかったのかもしれません。


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posted by tears0815 at 15:44| Comment(1) | TrackBack(0) | その他の戦闘および出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月19日

アメリカ本土空襲

1942年9月9日 意外かもしれませんが太平洋戦争緒戦にて、日本軍はアメリカ本土西海岸オレゴン州の森林に焼夷弾による空爆を仕掛けているのです。

もちろん日本本土から発進帰還できる長距離爆撃機はないため、潜水艦にてアメリカ本土近海まで行き、その潜水艦に搭載された零式小型水上偵察機にて本土空襲を実行しています。
その後9月29日にも、同じくオレゴン州の森林に焼夷弾の投下に成功しています。

ちなみに外国軍用機がアメリカ本土を空襲するという出来事は、アメリカ史上初であり今現在(2008年3月)に至っても唯一の出来事として歴史に名を刻んでいます。 

空母を用いて大掛かりな攻撃を加えなかったことは、この作戦は戦果を期待するということではなく、アメリカ政府やアメリカ軍に対して衝撃を与えるという意味合いが強いと考えます。 
もちろん空母を用いて敵に捕捉されるリスクを避けることも重要だったと考えます。



これとは逆にアメリカ軍による日本本土空襲という出来事もありました。
太平洋戦争末期の東京大空襲や地方都市の空襲ではなく、太平洋戦争緒戦の1942年4月18日のいわゆる“ドーリック空襲”と呼ばれている出来事です。
まだ太平洋戦争開戦から半年も経っていない時期です。

この空襲がなければ、連合艦隊司令長官山本五十六のアメリカ空母機動部隊への早急のせん滅攻撃の必要性の判断は薄れ、もしかしたら太平洋戦争のターニングポイントになった、ミッドウェー海戦は回避されていたかもしれません。
それだけ日本にとっては大きな意味をもつ出来事であったと考えます。

それにしても陸軍の戦闘機を海軍の空母から発艦させるというアメリカ軍の柔軟性には驚かされます。
はたして日本軍でも同じことが出来たでしょうか。

posted by tears0815 at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | その他の戦闘および出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月10日

終戦

ついにと言うかやっとと言うか8月15日に太平洋戦争の終戦を迎える。ただしこの日は日本国民に対して、ラジオによる玉音放送というかたちでこの太平洋戦争終戦の詔が伝えられた日になる。

実際の太平洋戦争終戦決定は8月9日の御前会議にて日本軍の無条件降伏を謳った“ポツダム宣言”の受諾をもって成したと考えていいと考える。

そしてこの太平洋戦争の戦争相手、敵国にあたる連合国には8月10日にポツダム宣言の受諾を打電により通告している。

しかし東南アジアや千島列島そして中国大陸の各戦場では各部隊各自の判断で未だ戦闘が続いていて、日本軍全軍の武装解除が成るのは10月15日まで掛かっている。


私はこの8月15日終戦の日を新しい日本の夜明けの日だと思っています。今までの良きも悪きも古い概念は払拭されアメリカナイズされた自由と民主主義を手に入れていくことになるのは承知の事実です。

しかし良いことばかりではなく、弊害も同時にもたらしました。食生活の欧米化や日本古来の伝統産業の衰退もこのときから始まっていたのです。  


私は時々考えます。太平洋戦争で勝ち目のない戦いに散っていった名もなき戦士たちはどうして自ずからの命を投げ出すことができたのか。

私ならこう考えることしかできません。「たとえこの太平洋戦争で日本が敗れても、それで日本が目覚めて生まれ変わることができるのなら、私の命も無駄にはならないだろう」 だから生き残った人たち、そしてその子孫の我々は彼らの意思を重く受け止めなければいけないのだと。

貴方たちの尊い犠牲のおかげで、このような素晴らしい国に再生しましたよ、と胸を張って語ることのできる日本を築きあげなければいけないのだと。

そしてこのことにも自問するのですが、今の日本は彼らが望んでいた国の姿なのかと。私は疑問でなりません。

物質的にはとても豊かになりました。逆に豊か過ぎて無駄や浪費が当たり前となっています。日本人の美徳のひとつである“もったいない”という精神的に大切なものを忘れたり無くしてしまったりしたのではないかと。心はどんどん貧しくなっているのではないかと。

太平洋戦争、あの教訓が薄れかかってる今こそ、日本らしさとは何か。いま一度あるべき日本の姿を見直す時期にきているのではないでしょうか。


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タグ:太平洋戦争
posted by tears0815 at 13:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 重大事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月09日

広島に原爆投下

概略 *************


1945年8月6日、広島に人類史上初の原子爆弾がアメリカ軍の大型爆撃機B-29エノラ・ゲイにより投下される。


考察(私見)**********


一般に言われているアメリカ軍の言い分に、「原爆投下はこの太平洋戦争を早期に終結させるため」とあるが私はそうではないと考えます。

せっかく莫大な労力とお金を費やして開発に成功したのだから、その威力のほどを実験では飽き足らず実戦で使って確認し、そして他国に自慢したかった。そういう気持ちが強かったのではないかと想像します。

しかし無差別殺りくを起こすこのような核兵器の使用はいかなる理由があっても行使してはならないと強く願います。


作戦面では、これまでの戦いでは用意周到というか、万全に近いと思われる作戦を実行してきたアメリカ軍が、なぜB-29のみ、護衛の戦闘機を付けずに作戦を行ったのかが謎です。

日本軍に反撃をしてくる余力はもう残ってないとの慢心があったのでしょうか。しかし実際に四国上空で日本軍戦闘機が攻撃を仕掛けており、もし被弾爆破していればこの地で核爆発を起こしており、そのようなリスクの回避も作戦前に想定できたはずなのに… 

今まで太平洋戦争後半の横綱相撲をしてきたアメリカ軍にしては珍しい失態といえるのではないでしょうか。


兵力の割合 **********


日本近海の制海権及び制空権を奪われ、沖縄も占領され日本軍は壊滅的ダメージを受けており、軍隊として抗戦できる兵力はほとんどなく、命中率の低い高射砲くらいだとすれば、日本軍(限りなく) 0 10アメリカ軍だと考えます。


太平洋戦争・教訓 *************


日本本土を守る軍隊の戦闘力もなく、日本の各主要都市で空襲が繰り返されていて裸同然の状態を曝しているというのに、、未だ降伏しない軍上層部に呆れます。

プライドやメンツに拘り、現実を見ようとしない体質こそが日本を破壊に導いた元凶だと考えます。


太平洋戦争カレンダー **********


太平洋戦争開戦から1336日 太平洋戦争終結の日まで10日


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タグ:太平洋戦争
posted by tears0815 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 重大事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月08日

沖縄戦

概略 *************


1945年3月26日、沖縄本島に上陸したアメリカ軍と日本軍との地上戦。太平洋戦争において日本軍が行使した最後の組織的戦闘。

考察(私見)**********


硫黄島の戦いに続くアメリカ軍の日本本土攻撃のための重要な戦い。

硫黄島と違い島民の疎開が進まなかったことから、島に住む多くの住民(民間人)が犠牲になる痛ましい戦い。


私は誤解していたのですが、島に住民を残したのは沖縄戦を少しでも有利にするため、すなわちアメリカ軍も民間人を巻き込むことは忍びないと考え、進軍が鈍るのではないか。という軍による謀略だと思ってたけど、事実は島民の意思で多くの人たちがこの地に残ったということです。

正確に言えば本土や台湾に疎開するのにもかなりのリスク(輸送船が攻撃され沈没することや何の縁故もない地での生活の心配)が伴い、この地に残らざるを得なかった人が多かったのです。

また日本がこの太平洋戦争で負けるはずはないという希望的観測が多分にあったことが悲劇を拡大したのではないでしょうか。


兵力の割合 **********


兵隊の数では日本軍28アメリカ軍だが、兵器の質量ともに圧倒的な差や、大本営と守備軍との確執や、不十分な海軍との連携などを考慮すれば、日本軍(限りなく) 0 10アメリカ軍だと考えます。


太平洋戦争・教訓 *************


いかなる理由があろうとも無抵抗な民間人を戦争に巻き込んではならない。ありとあらゆる策を用いて避難させるべき。

仮に作戦として用いて万が一に戦いに勝利したとしても、後の世から非難されることは必定と思うべし。。


太平洋戦争カレンダー **********


太平洋戦争開戦から1205日 太平洋戦争終結の日まで141日


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タグ:太平洋戦争
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2008年03月07日

硫黄島の戦い

概略 *************


1945年2月16日から3月26日に小笠原諸島の硫黄島において日本陸軍と海軍の混成部隊と主にアメリカ海兵隊とで行われた陸上戦。


考察(私見)**********


この期に及んでは、もはや戦いに勝利するための作戦ではなく、少しでも敵に損傷を与える。その地に足止めする(時間かせぎをする)そんな意味合いの戦いだったと考える。

しかしそのような絶望的な状況のなか、戦術を熟慮しそして指揮した栗林中将は間違いなく名将であったと信じます。

特に感銘を受けたのは、敵の上陸時に当時の原則であった水際防衛をしなかったことと、バンザイ突撃を厳禁にしたということです。


事実を客観的に判断して、強大な組織の悪癖「長いものには捲かれろ」的な発想にならず、自分を信じてはっきり自分の意見を言う。こういう人が太平洋戦争緒戦に活躍する機会が無かったことを悔やみます。

言い方は適切ではないですが、太平洋戦争末期のいわば“消化試合”“敗戦処理”で指揮を執る人物では決してないと思います。


兵力の割合 **********


兵隊の数では日本軍37アメリカ軍だが、制海権及び制空権をアメリカ軍が握り、後方支援の軍事物資等の供給など総合的な判断ではやはり日本軍(限りなく) 0 10アメリカ軍だと考えます。


太平洋戦争・教訓 *************


どのような絶望的な状況下でも何らかの策を見出すことはできる。

知恵を絞って考えれば、自軍の潜在能力を2倍3倍に高めた戦いができることを証明してくれた。


太平洋戦争カレンダー **********


太平洋戦争開戦から1167日 太平洋戦争終結の日まで179日


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タグ:太平洋戦争
posted by tears0815 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 重大事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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